びわ鉄工合同会社代表社員 中辻光二さん

覚えのない電話番号から
外出先でスマホに着信があった。橋梁通信社への電話の転送だ。4月初めのこと。覚えのない番号からだった。
所用で出られないでいたら、繰り返し着電は3回に及んだ。何か、緊急連絡かな? そう思って折り返し架電すると、人なつこい声が返ってきた。
「僕、中辻といいます。溶接の仕事が欲しいので、紹介してください」
「うちに来ないか」 誘われ 職を転々 結婚で「定職を」
滋賀県長浜市のびわ鉄工合同会社の代表社員、中辻光二と名乗った。
新聞社に取材の依頼でなく、飛び込みで仕事のお願いとは。大胆な電話に驚いたが、他方でどんな人物か興味もあって、しばらく経った頃、滋賀に出張した合間にお会いした。
滋賀生まれ、5人兄弟の末っ子だという。17歳で高校を中退し、職を転々とした。持前の親しみやすさで、人と出会うごとに「うちに来ないか」と誘われたのだ。
塗装、機械加工…。職を次々変えた。どれもそれなりにこなせたが、しっくりこなかった。「フラフラ人生だった」と苦笑する。
10年前に結婚した。「定職に就かなきゃ」。それまでに知り合った人たちを思い出すと、溶接業に魅力を感じた。
「面白そうだ」。そう思ったが、「これまでと同じことを繰り返さないため、まず基礎を学ぼう」。37歳で専門学校に入り、年下の若者に交じって半年間、溶接のイロハを学んだ。
大きな仕事見事に収めたが「浮いた存在」 42歳で独立
職には恵まれ、サラリーマン溶接工として一心不乱に働いた。「作業がとにかく楽しい。天職を見つけた」と思った。
経営陣に気に入られ、大型免震装置など大手ゼネコンの下請仕事のほぼ専従者になり、仕事は見事に収めた。しかし、それは同僚との間では逆効果を生んだ。「中辻だけ可愛がられて」。
社内で浮いた存在だと、自覚せざるを得なかった。「でも、溶接は大好き。思う存分、仕事がしたい」。42歳で独立した。
「どんな仕事にも挑戦」 「品質の妥協は一切無し」
しかし、仕事が向こうから舞い込むはずもなく、人生初の営業活動を始めたが、受注のノウハウが分からない。「だから、手あたり次第に電話することにした」。
その数、1年に100件ほど。岐阜県の橋梁補修会社は、橋脚耐震用の鋼板溶接作業を出してくれた。「品質の妥協は一切無し」。そうした仕事ぶりが評価され、注文が1年間に3件続いた。
長浜に自社工場を持つ。橋梁の耐震補強用の部材を受注したこともある。「もっと技術力を向上させ、どんな仕事にも挑戦したい。ぜひ、ご相談を」。
いつも支えてくれる妻、幼子2人の寝姿が力になる。45歳。(阿部清司)
(橋梁通信5月15日付号に掲載)